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画を観に行くとは、自分を・・

画を観に行くとは、自分を探しに行くこと。

そう思う時がある。

 

美術館にとてもよく行く。

 

なぜか、絵画が観たい。静かに見たい。

1対1で、対峙したい。

 

海外の美術館で、他に誰も居ないとき、

あまりの静けさに逆にドキドキしながらも、

1枚の画と20分位対峙することがある。

 

ずーっと、観続ける。

最初は正面で観ているだけだが、少しづつ違和感、不思議な点に気付いたりする。

 

あと、物理的に変な部分に気付いたりもする。

あれ、端には絵具が塗られていない、とか、

切れたキャンバスをくっつけてる、とか。

明らかにこの部分は筆が途中で止まっているな、なぜ先を塗らないの、とか。

この画って、完成してんの、とか。

 

あと、光が非常に気になる。

画は自然光で観るのがベストだが、美術館では

黄色光のスポットライトが当たっていたりする。

本来の画家がイメージした色が、分かんないじゃん、と思う。

本来は、こうかな、と想像することもある。

枠の影で縁が見えないこともある。

 

そうこうしながら、5分経つと、今度は少し変わる。

 

作家の気持ちを想像するようになる。

なぜ、ここにこれを描いたか。

主人公はなぜ、中心から微妙に左に寄っているか。

なぜ、この色とあの色の組み合わせなのか。

 

あと、私が必ずすることは、観る位置を変えることだ。

正面、左右45度、30センチ、3メートル、5メートル。

画は、観る地点により、かなり変わる。変えて、じっと観る。

角度を変えたら急に木漏れ日が見えてくる画があって驚いたこともある。

 

どこから見て欲しいと画家が思っているか、想像する。

 

イイ絵と思ったら、最近の私は必ず立ち位置を変えて観ている。

 

15メートル以上離れて観たら、急に画面が輝いて見えてきたこともある。

 

ピートモンドリアンの1913年の画、日本に来た画だ。

オランダまで再び観に行って、(クレラーミュラー美術館)

遠距離の愉しみを、初めて味わった。

小さな美術館では無理だ。

スーラの点描の前でも、何回も何十分も、居た。

 

ブリュッセルでも、王立美術館(写真)にボナールの大作があった。

誰も居なかったので、何十分か前に居た。

ブリューゲルも、ピーターとヤン、父子作が並べて数セット展示されている。

何十分、前にいたかも覚えていない。

 

・・・結局、画を観ながら、自身と対話しているのだ。

対話しながら、最初見えなかったものを発見してゆく

楽しさを味わっている。

時間を掛けると、私でもいろいろ観えてくる。

 

そして、長く前に居たくなる画はどれか、に気付くことで、

あ、こんな気持ちを持つのか、と新たな自分に気付いたりする。

 

モンドリアン、モランディ、シャルフベック、スタール、恩地幸四郎、クレー、佐伯祐三、

戸嶋康昌・・・長く観た画家はバラバラ(笑)。

 

嗜好に一貫性が無い、わけわかんない(笑)。

敢えて言えば、シンプルで研ぎ澄まされた画、と、奥行きのある画。

だが、それでいい。敢えて素人でいい。

 

画に向かいながら、画を愉しみながら、結局自分を探している。新しい自分を。